「Something about us」
夏も終わりに近づき、その間に撮ったフィルムを現像し、乾燥させ、ネガをデジタルファイルに変換していた。
現像液の準備、水槽の予熱、薬品の出し入れ、フィルムの乾燥、ネガのデジタル化、ネガの編集、紙にプリントする。
この1年間、撮影、現像、編集を繰り返し、何千枚もの写真がハードディスクに溜まっていった。
ネガが現像タンクから引き出され、プリンターのヘッドや暗室のペーパープロセッサーから写真が吐き出される瞬間は、正直言ってとても興奮する。しかし、長時間の仕分け、編集、制作で私は疲れすぎてしまった。今、私はモニターと向き合っているが、やりたいことは写真を撮ることだけだ。
街から離れ、荒涼とした場所に行き、また戻る。野犬のように嗅ぎまわり、シャッターを押すときに必要な馬鹿さ加減を持つ。 屋外での日常的な活動で消費した気力を、屋内に戻って機械や紙の前で燃やす。その繰り返しが私の生活の中で閉じた循環を生み出し、一方で私はエネルギーを取り戻すために常に外の世界を感知する必要があり、その循環を続けることしかできなかった。
その気力は、私の生活を支える大きな力とさえなった。このような力は、ある種のエネルギー、あるいは暗黒物質と呼べるかもしれない。雪山から森、街の隅々まで、私たちの目に見えない領域で絶えず流れているようだった。何度も何度も、これらのエネルギーは、自然や人間社会に対する私の好奇心や感知を駆り立て、私を取り巻く世界を見つめ、触れ合うよう導いてくれた。
これらの写真は、非常にシンプルで自由な「写真を撮りたい」という衝動から始まった。 ある外出のある時点で、私は目の前の視界を押し広げる目に見えない流れを思い浮かべたが、それは身近なものでありながら大きく豊かな世界であった。色彩、質感、階調、構造の充溢は、私の目を物事に向き合うように凝視させ、大きな内的満足をもたらした。
写真を通して、これらのエネルギーの流れをマッピングしようとしたが、失敗したと思う。 これらの目に見えないものは、私たちが経験し知覚できるものを遥かに超えており、あらゆる空間を埋め尽くし、目に見えないものに隠れ、陽光が焼き付いた痕跡だけを残していた。